ごあいさつ
ここに書こうと思ったのですが、ちょっと長めになってしまったので、左のカテゴリーの「会報」をごらんください。
また「会報」には「当方について」、「掲載方針」等も掲載しております。

仏像の注文時に注意すること

  • author: t0ky0tra01
  • 2011/10/09 15:56

仏師が作成した仏像や、これから作成を依頼する場合に確認しておいたほうがいいのが仏像のサイズです。特に高さについてはしっかり確認しておきましょう。これを知らないと、思っていたのと違ったサイズで届いてしまうという事が起こりえます。

最近は丁寧に台座から光背までの高さ(総高)をメートル法で表示してくれているものもありますが、一部には伝統的に尺貫法で身丈しか表記していない場合もあります。

身丈表記の場合は尺貫法表記ですので、一尺なら約30.3センチです。
しかも台座から光背までの総高ではなく、仏像と台座の接地面から白毫までの高さです。

白毫とは眉間にあるほくろのような部分で最近の作成例では突起状にしたり、彩色で描かれたり、白い石が埋められるケースが多いです。(白毫は仏の三十二相のひとつで、眉間にある右巻きに巻かれた伸ばすと4.5メートルにもなる白い毛で世界をあまねく照らす光を放つと言われます。)

従いまして二寸(約6センチ)の仏像を依頼すると、身丈が二寸ですから、台座や光背まで含めると20センチくらいまでの大きさになることが想像できます。ですので、購入した仏像を用意した仏壇や厨子などに納めたい場合は総高をきちんと確認しておきましょう。

なお、一般的には上図のように坐像でも立像でも仏像の台座接地面から白毫までの「見た目の高さ」を指すことが多いですが、下図のように

「身丈=立った時の身長」といった感じに捉える人もおります。
そうなりますと、一尺の仏像を依頼した場合、仏像自体の高さが立像なら30センチ強となりますが、坐像ですと「30センチ強の仏様が座った状態」となりますので仏像自体の高さが約半分の15センチくらいになります。

お金の問題ではないのでしょうし、あまり好ましくない表現ではありますが、決して安い買い物ではありませんので、購入、作成依頼の際にはきちんとこのあたりも確認いたしましょう。

(4)鎌倉期から現代まで

  • author: t0ky0tra01
  • 2011/09/09 10:26

ずいぶん乱暴にスキップしますが、それ以降エポックメイキング的な出来事はめっきり減って行きます。

鎌倉期に慶派が全盛期を迎えて、他の仏所が衰微した結果、慶派以外はなくなってしまったのでしょうか?
そのようなことはありません。鎌倉時代の末期には再び世の中が荒れます。天皇家が南北に別れるという、これまでにない混乱期を経て足利義満によって日本に落ちつきが戻ると、院派は室町幕府と結びつき、ふたたび落ち着いた感じの仏像が復活します(これは私見ですが、慶派を重用した鎌倉幕府への反動か、室町幕府が貴族的生活を始めたことが院派が復活するきっかけになったのかもしれません)。

室町時代の末期から戦国時代にさしかかると、全体的にはまた写実的な仏像を好む傾向が現れます(想像しているほどは現存しておりませんが)。

この室町末期から戦国期の特筆すべき事象としては奈良に登場した宿院仏師が挙げられます。これまでの康尚から続く仏師は僧侶の末席に列する僧籍を持つ集団でしたが、宿院仏師は大工出身で俗人のまま仏像を彫り続けていきます。
特徴としてはこれまでの作風とは完全に孤立しており、上質の桧材で白木のままで完成とするスタイルや、従来の注文製作から店舗販売を始めた点が挙げられます。この宿院仏師は名跡のようなもので80年間に3人の人物が代々この名を使用します。この系統はこのように80年間で途絶えますが、彼らのこの活動は現在の仏師の原型と考える向きもあり、その点では先駆的といえます(日本では仏師や仏画師は徒弟制度の名残はありますが、資格を要する職業ではないため、本人が思い立ちさえすれば始められますが、スリランカなどの上座部仏教では仏師や仏画師を個人が自由に始めることはできません)。

江戸時代になり、太平の世の中になると、それまで荒れに荒れていた寺や仏像の修復が全国的に行われます。こうした需要の急増から「にわか仏師」も急増したようで、この時期には残念な修復の仕方をされた仏像も散見されます。

一方で円空や木喰などのユニークな仏像も生まれます。

現在我々がお寺で目にする仏像は金箔が剥げて木地が露出していたり、金仏(かなぶつ)なら錆びていたりしているものを多く見ますが、この当時の人たちは修復し終わった金箔で金ピカの、あるいは彩色されたカラフルな仏像を見ていた可能性があります。
(現代人が白木の仏像を好むのに対し、江戸期の仏壇からは金箔をほどこした肌粉仏像が比較的多く出てくるのも、ひょっとしたらそういった影響があるのかもしれません)

そして明治以降は西洋の彫刻技術や信仰から離れて純粋に芸術として捉える視点からの新しいアプローチも加わり、様々なタイプの仏像が生まれています。私たちはヴァリエーションに富んだ仏像を目にできる恵まれた時代に生きています。ある意味、鎌倉期以降は江戸期の円空、木喰など、一時期的に革新的な事象が起きたのみで、現代こそがむしろ鎌倉以来の変革期にあるのかもしれません。

ですのでここで(当サイトはまだまだコンテンツとしては少ないですが)色々な職人・仏師、仏支の手による作品を手にとっていただく契機となればと思っております。それは世代を超えて残りますし、同時に持ち主が生きた証ともなります。


七条仏所跡(七条高倉通下ル)
七条通りと高倉通りの交差点に位置する。たまたま京町家風の家屋が建っているが、七条仏所は室町時代に四条烏丸に移転しているので、現在は一般の住宅です。仏所としての遺跡は特に残っていませんので、お立ち寄りの際は迷惑のかからないようお願いいたします。


実際のところ定朝が居住したかどうかは分からない。記録上はっきりするのは定朝の実子、覚助からだと思われます。また、定朝は記述の通り、仏師の地位向上に貢献したことは事実ですが、官立仏所を離れ私立仏所を設立し、現在のような仏師の原型を作ったのは定朝の師の康尚からと言われるので、「仏師の祖」は専門的には康尚とされています。

(3)慶派の登場

  • author: t0ky0tra01
  • 2011/09/08 19:29

京の七条仏所からは貴族からの注文を主に引き受けて仏像を作り続けた円派(三条仏所)、院派(七条大宮仏所、六条万里小路仏所)が全盛期を迎えます。一方同じ七条仏所からは奈良に下向した弟子もいました。

奈良に渡った一派は頼助(らいじょ)を中心とするグループです。この時の頼助の主だった活動は記録としてはあまり残っていませんが、頼助の孫の康朝あたりから記録が出始めて、その康朝の弟子に康慶という優秀な人物がでてきます。
この頃の奈良は南都焼討に遭い、多くの仏像を消失したため、康朝・康慶師弟は精力的に復興のために仏像製作に打ち込み、文字通りの復元作品のみならず、焼失前の姿が伝わっていなかった仏像に関しては彼らの独創的な作風を加味していきます。

康慶の生きた時代は平安末期で末法思想が世の中を覆い尽くしていました。貴族や(貴族と化した)平家はこぞって極楽往生を願い、浄土思想に基づく寺や仏像を作ったり、納経したりします。
同時にこの時代は法然、親鸞、道元、日蓮などに代表される鎌倉仏教も誕生し始めており、仏教の主役が一部の限られた貴族のものから庶民のものへと変わっていきます。

戦乱の世が過ぎ、源氏中心の武士の時代になると、一般的に言われるように貴族趣味より武士が好む猛々しさが好まれるようになります。また、庶民仏教時代の到来により、より仏を身近に感じるための生きた感じの仏像が要求され、極めて人間的な所作(実際には骨格上、人間にはできないポーズもありますが)を思わせる写実的な仏像が増えてきます。このあたりから康慶、運慶、快慶、湛慶などが活躍します。ご存知慶派です。

慶派の仏像は肉体の表現が写実的で際立っており、玉眼の多用も特徴に挙げられます。また独特なところでは、作成開始時に描いた計画の通りに出来上がらなかった場合、首、胴、腕など、上手くいかなかったところを躊躇することなく切り落として補正し、元に戻すという大胆な特徴的工法があります。

この時代に慶派が活躍できた理由はいくつか推察されています。
・奈良で修復中心の活動から仏像の構造を細かく研究できた。
・源平合戦で平重衡による南都焼討で旧来の仏像の多くを消失し、復興のために腕をふるう機会に恵まれた。
・円派、院派ともに京の貴族、平家とのつながりが強く、とりわけ院派の院尊は平家の依頼で源氏調伏のための仏像を作ったことから特に源頼朝に嫌われ、慶派が新時代の為政者である源氏に重用された。

慶派はこの勢いをかって京にも進出します。拠点となった場所は平安時代の覚助が工房を構えた七条仏所です(七条に仏所を構えた覚助と慶派は系統的につながるので、再進出とするのが良いのかもしれません)。
このため、七条仏所以外の三条仏所、七条大宮仏所、六条万里小路仏所は衰微していきます。

(2)定朝と私立仏所の時代

  • author: t0ky0tra01
  • 2011/09/08 09:47

平安時代の仏像といえば「定朝様式」、「和様」という言葉があるように、定朝が一時代を築きます。寄木作りが登場し、また和様の言葉通り、日本人好みの様式を作り上げます。よく優しい穏やかな雰囲気が特徴などと言われます。貴族趣味とも言われることがありますが、王朝文化の全盛期を今に伝える貴重な姿でもあります。

この定朝の弟子、長勢が三条に工房を構え(=三条仏所)、京の貴族からの注文を主に受けていきます。この流派は名前に「円」の字を持つ者が多いので「円派」と呼ばれます。

定朝があまりにビッグネームなだけに、その影に隠れてしまってますが、定朝の実子の覚助(かくじょ)が私はキーパーソンだと考えています。彼は七条に工房を構えて(=七条仏所)活動します。この七条仏所は他の仏所が時代と共に衰微するのに対して、結果的に最後まで残ることになります(室町時代に四条烏丸に移転)。

この覚助の弟子、頼助(らいじょ)は奈良に向かいます。この頃は政治権力も仏教も中心は京なので、奈良では大きな仕事はなく修復が主だったと推測されています。

また、覚助の実子、院所(いんじょ)は七条大宮に工房を構え(=七条大宮仏所)、定朝直系の仏像を作成していきます。この流派は名前に「院」の字を持つ者が多いので「院派」と呼ばれます。彼らも主に京の貴族と結びつき、仏像を作成していきます。

更に院所の実子の一人、院朝(いんちょう)は六条万里小路に工房を構えます(六条万里小路仏所=ろくじょうまでのこうじぶっしょ)。

(1)仏教伝来から平安期まで

  • author: t0ky0tra01
  • 2011/09/08 02:52

日本に仏教が伝来すると共に仏像の工法も伝わります。伝来当初は法隆寺の釈迦三尊像や飛鳥寺の飛鳥大仏で有名な止利仏師(鞍作止利=くらつくりのとり)など、渡来仏師が活躍する時代で(血縁集団だったとも)、日本人は補佐をしながら技術を学ぶ時代でした。

奈良時代後期には官立寺院の仏所、大寺院の仏所が設立されるので、平安時代になると多くの仏像は日本人仏師の手で作製されていた可能性が高くなります。しかしこの時代は仏像に作者の名を残す習慣がありません。また仏師の師弟関係や親子関係を示す証拠になりそうな文献も特に名だたるものはなく、どのように命脈を保ってきたのかはっきりしません。

平安時代中期になると下級武士の子息で仏師となった康尚(こうじょう)が登場します。一般的にはこの康尚をもって「仏師の祖」とされています。場所ははっきりしませんがこれまでの官立寺院の仏所、大寺院の仏所を離れて私立の工房を設立します。この工房から定朝(じょうちょう)など(後に一時代を築く)弟子を輩出します。(*仏師の祖は定朝とする説もあります)。