ごあいさつ
ここに書こうと思ったのですが、ちょっと長めになってしまったので、左のカテゴリーの「会報」をごらんください。
また「会報」には「当方について」、「掲載方針」等も掲載しております。

ろうそくの歴史 ~ (2)和ろうそくの製法・特徴と現状

  • author: t0ky0tra01
  • 2011/09/30 10:13


現在あまり使われなくなった和ろうそくですが、需要が減ったからではなく、パラフィン製のろうそくが機械で安価に大量生産できるから淘汰されたというのが事実でしょう。

和ろうそくは出来上がるまでに非常に手間がかかります(その割には非常に安価だと思いますが)。

和ろうそくの主原料は漆の一種であるハゼノキのハゼノミから取れるハゼ蝋です。このハゼノキは東アジアと東南アジアにしか自生しない木です。しかし(後述しますが)和ろうそくは日本で育ったハゼノキ以外に作ることができません。

まず、ハゼノミを蒸して潰して蝋を取り出し、ろうそく職人の元へ行きます。
ろうそく職人は木の棒に紙を巻き、い草を巻き、時には綿を巻いていきます。そして蝋を染みこませます。こうした製法のため、西洋ろうそくより芯が強く、最後までしっかり燃えます。

木の型に芯を入れて蝋を流しこんで作る製法もありますが、一般的な和ろうそくの製法としては手に溶かした蝋をつけて、もう一方の手で芯を転がし、蝋をつけていきます。

乾いてはつけて、乾いてはつけてを繰り返すので、年輪のようなものができるのが特徴です。最初は軽い火傷をしたり大変らしいですが、慣れるもんだそうです。


前述しましたが、和ろうそくの原料はハゼノキです。実は中国製のハゼノキや東南アジアのハゼノキでも試したことがあるそうですが、できなかったそうです。日本で育ったものだけしか使えません。なぜでしょうか?

成分分析をすると中国や東南アジアのハゼノキにはない成分が6%含まれていることがわかりました。
それは「日本酸」と呼ばれる成分です。
元々ハゼノキはアジアにしか自生しません。そこにもってきて日本のハゼノキにしかないものですから、自ずと「日本酸」と名付けられました。英語でもJapan Acidと呼ばれます。ハゼノキもJapan Wax Treeです。日本の気候や土でないとできない成分なのでしょう。事実、日本のハゼノキを中国に持って行って育ててもダメだったそうです。

この日本酸が6%あるかないかが和ろうそくになるかならないかを分けていたのです。
つまり、和ろうそくは「原料を海外から輸入することができない」ということが分かったのです。

和ろうそくは西洋ろうそくより、
[ ひかりが強く、長く持ち、風に強く、煤が少ない ]
という特徴があります。煤が少ないのは金箔を用いる仏壇には非常に優しいのです。金箔仏壇は30年くらいに一度洗う必要が出ますが和ろうそくであれば傷みも少なく、洋ロウソクを使った場合と比べて5年から10年は長持ちすると言われてます。

緑ががった白が一般的。赤い蝋燭は主に浄土真宗で使われます。

-------------------------------------------------------------------------------------
和ろうそくの原料になる日本産ハゼノキは日本のほぼ全国で自生していますが、東日本のハゼノミは小ぶりなので蝋がほとんどとれないそうです。なぜか四国西部、九州産のハゼノキが実が大きく効率が良いそうです。

現在和ろうそくを生産する工房は20軒近く残っています。非常に数は少なくなりましたが、後継者が決まっているところなどもありますので、細々とでもとりあえず当面は和ろうそくとその技術は残るでしょう。
しかし、ハゼノキを育てて実を取り、蝋を作るまでの(和ろうそく職人に蝋が渡る前段階の)過程を行う職人が激減しています。川上が枯れれば川下に水がいかなくなるのは自明の理。やはりきちんとした需要を喚起する必要がありそうです。
そういった意味で和ろうそく自体が風前の灯になっているのです。和ろうそくのような形をした西洋ろうそくも出始めていますが、原料が違い、質(特に煤の量)も異なりますから、見かけだけ対応できても仏壇や寺院の須弥壇を傷めるスピードは早まるでしょう。現在農業が見直され始めていますが、こうした「食」以外の農も重要なのです。(結論が農業になってしまいました(笑))

ろうそくの歴史 ~ (1)和・洋のろうそく略史

  • author: t0ky0tra01
  • 2011/09/29 15:28

お寺は言うに及ばず、仏事・仏壇でも欠かすことのできない道具の一つにろうそくがあります。現在一般的に使用されているのは芯が糸でできている西洋から伝わったスタイルのろうそくです。西洋式のろうそくは中世の宣教師らがもたらしていた可能性がありますが、一般的に普及するのは明治以降です。それまでは和ろうそくしかありませんでした。

ろうそくは奈良時代に仏教の伝来と共に中国から伝わりました。この時代は洋の東西を問わず主原料はミツバチが作る蜜蝋でした。平安時代に入るとマツヤニに取って代わられ、室町時代には次第に漆やハゼノキ(漆の一種)などの木蝋になっていきます。
ちなみに西洋式ろうそくは豚などの動物の脂分で作るようになり、特に鯨の脂が高級、かつ効率が良かったため、(日本では捨てる所がないくらい命に感謝して行われていた捕鯨に対し、)ほぼ脂のためだけの非効率な捕鯨が盛んに行われます。

西洋のろうそくは前述のとおり、中世に宣教師によってもたらされている可能性はあるのですが、宗教の違い、とりわけ殺生を禁じる仏教(キリスト教も禁じてますが)にとっては無理に動物性脂のろうそくを使わなくとも植物性脂の和ろうそくで十分だったという理由もあったようです。事実そうした理由で長らく仏教界では西洋ろうそくは使われませんでした。

江戸時代に入ると島津藩が支配していた琉球王国からハゼノキが大量に伝わり、生産量が増えます。
一方、西洋では石油から作られるパラフィンのろうそくが開発され、こちらも一気に大量生産が始まります。このパラフィン製のろうそくが明治期にもたらされて日本でも普及します。そしてこれが動物性脂ではないという理由で寺院でも使われ始めます。

仏像製作途中 ~ 黒住仏師

  • author: t0ky0tra01
  • 2011/09/26 16:57

黒住仏師の完成作品を紹介して行く前に、今回は製作途中の仏像で黒住仏師の特徴をお伝えしていこうと思いました。

黒住師はNHK学園主催の仏像彫刻教室の講師を勤めてらっしゃいますが、彼から学んだ人たちの何人かが有志で彼を招き、仏像の指導を受けていると聞いて3月頃にお邪魔した時の写真です。

写真は仏像の製作途中のものです(生徒さんには見本にもなりますね)。
黒住仏師は以前の紹介で、慶派登場以前の手法を研究、文化財補修以外で市井にまじって仏像を彫り続ける仏師であると紹介しましたが(詳細はこちら)、以下の製作途中の仏像の段階で、すでに他の仏師にはない、その片鱗が見えております。

荒彫りのあとはこのように朱を入れて細かく彫っていきます。
姿勢はほぼ直立です(鎌倉以降は前につんのめる姿勢になります)。
肩も「いかり肩」の傾向にあります(鎌倉以降は普通肩です)。


顔の輪郭が丸型でふっくらしているので天平期に近い形です(鎌倉以降は丸みはあっても面長です)。
眼の形も目尻が切れ長でつり上がるあたりは天平期に近い形です。
口や耳は未完成の作品なので断言できませんが、慶派以前の形になることは容易に想像できます。

細かく見ていくと、仏師さんによって細かいところがみんな異なる事がわかります。特に黒住仏師の場合は得意とする分野が特徴的なので、比較すると面白い発見がありますよ。
次回はきちんと完成作品を紹介していきます。

武と仏 「武壇」~森蘭丸 (都築数明氏)

  • author: t0ky0tra01
  • 2011/09/21 12:57

仏壇の文化的側面がかえりみられなくなって仏壇のない家庭も増える中、お寺や神社とほとんど同じ技術が使われている仏壇の伝統技術を(ひとまず信仰とは離れているとしても)もう一度見なおしてもらおうと独特の角度からユニークな活動を行っている都築氏。目的は「仏壇に対するイメージ向上、仏壇職人の地位向上」

そのために都築氏は周辺の仏壇に携わる職人たちと「アートマン・ジャパン(*)」というグループを結成し、新商品開発においては、仏壇の使用用途を変えてみるというコンセプトでユニークなものを多く作られております。しかし彼らの視線の先にはあくまで伝統的な仏壇の再評価です。

今回はそのうちの一つを紹介します。
一般的には仏壇や厨子などには唐破風の屋根があるだけですが、ここに武将の兜の前立てをくっつけると合わせ技です。


「南無阿彌陀佛」の六字名号を前立てにつけた兜のは森蘭丸所用とされるものです。甲冑の実物はこちら
織田信長の小姓で本能寺の変で亡くなった人物で有名ですね(中にあるのは大威徳明王ですが、森蘭丸との関係はわかりませんので、とりあえず適当に入れてあるのかと(^^;)。
石山本願寺が信長に降服し、改めて布教することを認められたあと、六字名号の兜を作ったようです。
数ある資料のひとつによれば、蘭丸は浄土真宗本願寺派だという記載があります(しかし東本願寺が成立するのは江戸時代なので、蘭丸生存時に彼が本願寺派だったというのはちょっとおかしいような気もします)。

今後も彼らのユニークな仏壇を紹介していきます。
*アートマンとは梵語で個人本体を意味します。主にヒンドゥーで使用されますが、仏教でも使用されます。対義語はブラフマン(宇宙の根本原理)。都築氏はこのアートマン(Atman)とArt(芸術)をかけて活動体の名前としています。

仏壇の歴史(3) 仏壇の転機、現代の仏壇の誕生へ

  • author: t0ky0tra01
  • 2011/09/20 14:58

室町時代になると前述のように書院造りが大成し、床の間に仏具を安置する習慣が成立します。そしてこの時代に仏壇の歴史にとって大きな転機が訪れます。

浄土真宗の蓮如の登場です。
蓮如は浄土真宗8世で中興の祖と言われる人物で、浄土真宗史を語るときには外すことのできない重要人物です。
蓮如は積極的に布教活動を行い、門徒には日々の勤行の重要性を説きました。そのために「南無阿彌陀佛」の六字名号を掛けることを推進していきます。蓮如が積極的に仏壇を奨励したかははっきりしません。当初は単純な木箱のようなものだった可能性もあります。しかし、六字名号を頂いた門徒が家に掛ける際に本山を模した物を用意して安置し始めたことが仏壇の具体的な登場例と言われています。

室町~戦国期を経て江戸時代になると、宗教勢力に手こずった織田信長や豊臣秀吉を見ていた徳川家康は巧みな懐柔策を採用していきます。これが「宗門改め寺請け制度」、檀家制度の確立です(為政者の側から見るとよくできたシステムですが、宗教史から見ると現在まで禍根を残すほどの影響力を持つことにもなる制度です)。
また、キリスト教を禁教としたので、庶民は仏教徒の証として必ずどこかの寺院・宗派に属す必要が出てきました。

浄土真宗は一足先に仏壇(または仏壇のようなもの)を家に安置する習慣ができていましたから、仏教徒の証にもなる仏壇を更に発展させていきます。
この時期に徳川家康の巧みな策により、浄土真宗は西本願寺と東本願寺が誕生します。西本願寺に属す門徒は西本願寺の阿弥陀堂を模して金箔張りの仏壇を、東本願寺に属す門徒は黒漆塗りの柱の阿弥陀堂を模した仏壇を安置していくようになります。そのため本願寺派(西本願寺)の仏壇は金箔の面積が、大谷派(東本願寺)の仏壇は黒漆面積が大きくなっており、一目瞭然で見分けられます。

江戸幕府のこうした宗教政策と古来からある祖霊崇拝、そして浄土真宗の在家主義が幕府の宗教政策と比較的親和性が高かったため、他宗派もこの影響を受け仏壇を置いていくようになります。
また墓と家が離れているのは今に始まった話ではないので、身近に故人の存在を置いておきたいという欲求も相まって広がった可能性も高いと考えます。
一般的に仏壇に対して厳格で細かいしきたりはありませんが、浄土真宗にはいろいろ細かいルールがあるのはこうした歴史があるからです。
現在はライフスタイルの変化により家具調仏壇など、様々な種類がありますが、基本的にこうして現在の仏壇へと繋がって行きます。


--------------------------------------------------------------
ただ、このように多くの資料から、仏壇は江戸時代に普及したとされるわけですが、この定説では、あたかも庶民の多くが仏壇を当たり前のように保有するようになったという解釈も成り立ちます(仏壇が江戸時代に普及した事実は間違いないですが)。宮大工の技術とそっくり同じ技術が必要な仏壇を庶民の多くが保有できたとは到底思えません(家に小さな寺を建てるようなものですから)。庶民とはいえ、ある程度の財力がある者だけであったでしょう。

事実、この時期には「出世仏壇」というものがありました。
「出世仏壇」とは一種の験担ぎ、縁起物でもあります。
当時(も現在も)仏壇は高価でした。これを保有できるのは一部の富裕層くらいでした。仏壇は扱い方にもよりますが50年から80年くらいの間にメンテナンスが必要になります。この時メンテナンスするか、新たに買い換えるかの選択に迫られます。
出世した人は大きなものに買い換えて感謝を表したそうです。また、買い替えが行われると、中古の仏壇が生まれます。この中古仏壇が「出世仏壇」です(出世した人による買い替えの行為を「出世仏壇」と言ったりもしたそうです)。

「高価な仏壇を持てる者は出世した人。そんな人が持っていたお下がりをいただいて出世した人にあやかろう」

ということでもてはやされたといいます。
平たく言うと縁起のいいコピーをつけて売られている中古品です。そうは言ってもエコでもありますし、リサイクルが既にこの時期に成立していた事実も見逃せません。
*現在ネットで出世仏壇を検索すると、「先祖の功徳で家が繁栄する仏壇」というような占いや風水的な要素を含んだ意味合いで使用されていたりしているものもあるようです。本来の出世仏壇は上述したような意味です。

つまり仏壇は中古でも喜んで使用したほど、新しい仏壇は簡単には手の届かない物だったようです。それ故、手にした者は大切に扱ったでしょうし、大事に使えば百年は軽く持ちます。何世代も使え、先祖や自分がほんの一時この世に存在した証ともなり、「仏壇自体が形見分け」として存在していくことができるのです。そのくらい高品質・高水準の技術なのです。
ライフスタイルの変化もあるでしょうが、こうした「仏壇の持つ歴史的な重み」を少しでもご理解いただき、時代の変化に合わせながらもどこかに仏壇のおける「間」というものを作って欲しいものです。これは他の仏教圏にはない、日本の仏教徒が長い時間をかけて築いた、日本独自の文化なのですから。